文豪たちは今日も生きている~何でもないはずの日常に潜むレトリック~

30代後半ともなると、日常で降りかかるあらゆる出来事に関心を示せない自分がそこにはいた。「こういう時にはこうやって対処すれば良かったよね。」いつの間にか、ステレオタイプ化された自分。。。そんな ”ありふれた日常” にも、本当は潜んでいるはずの非日常を探しに・・・

風あざみ

前回に引き続き、"夏の終わり" に関して、ネタを引っ張らせてもらう。

 

 

"季節感" を感じる、ということで言えば、四季折々の自然の変化以外でも、音楽♪が挙げられるだろう。

 

自分なんかは、学生時代から『No Music No Life』(笑)

『音楽がなければ生きられない』

『音楽がない人生なんてありえない』

転職人生の僕だが、トラックドライバー、そしてバス運転手になり、音楽に精通できる時間が確保できるのが、何よりも一番有難いのだ☆

 

 

さて。つい先日、ラジオ番組で、井上陽水の『少年時代』が流れた。

 「夏が過ぎ 風あざみ~」

夏の終わりに流れる、まさに定番曲である。なんとなく聞いてる僕。

すると、ラジオDJが、「風あざみって、そんな日本語はないんですよね~。造語なのを皆さんはご存じですか?」と。

 

えっ!そうなの??(笑)

本当に!?

 

一度、気になり出すと止まりません。ボクちゃん。

電子辞書で調べてみると、確かに「風あざみ」では検索できない。

「風」と「あざみ」では検索できる。

ちなみに、「あざみ」は春から夏にかけての植物の名前らしい。

 

ではでは、今度はネットで調べてみると...

やはり、井上陽水の少年時代の歌詞、という類の項目ばかりの検索結果。

 

そんな中!一つだけ目を引いた検索結果あり ↓

 『井上陽水 少年時代に散りばめられた造語には本当に意味はないのか?』

https://utaten.com/specialArticle/index/1314

 

「風あざみ」「夏模様」「宵かがり」「夢花火」などの言葉は井上陽水が独自に作った造語である。

 

井上陽水がインタビューで「響きのよさで作った言葉で、意味ないんだよ。」と答えていることからも事実である。 

とある。

そうだったんだぁ。。。

 

 このホームページの中で、これら造語の解釈が載せてあり、言葉を噛み砕いて解説してくれている。

ここで、その一部を紹介してみることにしよう。

 

 

 

〇「風あざみ」

夏が過ぎ去った少年時代の虚無感。

子どもの頃の夏の想い出は、大人になっても楽しい想い出として記憶させる。

『青空に残された 私の心は夏模様』も、夏休みが終わったあとの、あの虚しい感情を表しており、青空という記憶装置に子どもの頃の楽しかった夏の想い出(=夏模様)を残している。

 

う~ん、分かったような分からないような・・・(笑)

 

僕の「風あざみ」という言葉からイメージするのは、

黄金色に変化した水田の稲穂が、青空の下、風でサラサラとなびいている風景そのものなんだけどなぁ。。。

 

でも、風あざみという言葉の解釈はさておき。

少年時代の夏の想い出の感情を、『夏模様』という言葉で表現しているとの解釈は、納得できるし分かりやすい。

 

他にも、

〇「夢花火」

夢のような八月の楽しかった想い出を、花火の儚さにかけている。

 

これは、なんとなく理解できる。

夢って、そもそもはかない一面があるし、それを実現するには相当の努力と労力を要するものだ。

夢って自分にとっては、煌びやかで憧れでもあり、、、

そんな「夢」のような楽しかった夏の時間・想い出は、あっという間に過ぎ去っていくもので、それを花火の美しさと儚さにかけている造語という解釈は、もはや "言葉の芸術" であると言えるだろう。

 

 

〇「夢はつまり 想い出のあとさき」

夢とは、想い出の延長線上にあるものと考えており、夢は想い出の一つ

 

これはもう、令和最初の夏に僕が経験した出来事を考えてみても、非常に共感せざるを得ない(笑)

 

 「あの子とデートしてみたかったなぁ」

なんていう願望も、僕のように女性慣れしていない人間にとっては、『夢』の一種と言える。

そんな願望・夢というのは、実現できなくても "想い出" として記憶され、けっして苦い想い出ではなく青春の1ページのような甘酸っぱい記憶として残ることだろう。

 

夢は、煌びやかで憧れでもあり、それだけ実現も難しく、結局は儚いものである。

だからこそ、現実に実行がなされなかったとしても、想い出の一つとしては記憶されるのだ。。。

 

 

 

さて。

こんな風に、井上陽水の造語の解釈をしていて気づくのは・・・

 

"日本人の想像力の果てしなさ・素晴らしさ"

 

そんなことを、皆さんも感じませんか??

 

最後に、この『日本人の想像力』について、僕からプレゼンさせてもらうことにする。

 

 

 一人称。自分自身を指す言葉。

英語では、アイ。アルファベットの「アイ I」という一文字。

多分、口語でも文語でも、これ以外に自分自身を指す言葉ってないですよね!?

「セルフ self」だと、「自分自身で何かをやる」みたいな、動詞的な要素が加わる気がするので。。。

 

純粋に、自分自身を指す言葉で考えたとき、日本語って凄いよね?

って話です。

 

私、僕、俺、あたし、わし...

 

上記それぞれの自分を指す言葉で、対象となる人物像がイメージできる。

「私」だったら、女性もしくは、オフィシャルな場面での男性。

「僕」だったら、男性もしくは、アイドルグループの若いお姉ちゃんが歌詞の中で自分を指すとき使ってる(笑)

「俺」だったら、男性で、自分が相手より社会的立場が上だったり歳上だったりするとき。

「あたし」だったら、女性で、自己主張が若干強めの若いお姉ちゃんが使ってる(笑)

「わし」だったら、日本昔話に出てくるような、長老的なイメージの人。

 

 どうですか?

僕の解釈は、あながち間違ってないよね??

 

まだまだある。

「我輩」だったら...夏目漱石の『我輩は猫である』の猫、もしくは聖飢魔Ⅱデーモン閣下(笑)

とかね。

 

上の話は口語だけど、文語ならではの一人称なんてのもある。

 

「小生」だったら、自分をへりくだって使う言葉でありながら、同等以下の相手に対して使う言葉。よって、大学教授が学生に対し使っていたのを記憶している。

「本職」だったら、警察官が供述調書をとるとき、自分を指すときに使っている。

 

 

うーん。

日本人って、なんという想像力の深さ!

そして、相手より上とか下とか...すげー気にする人種なのね(笑)

武士道とか公家とかの世界は、現代でもこういうところで、知らずと受け継がれているんですねぇ。。。