満月をあと何回見れるのか?
明けましておめでとうございます!
お久しぶりです。約一ヵ月ぶりとなりますか...
この一ヵ月の間、ブログを更新しようと思うことがあっても、なかなか腰を据えて文章書くことができなかった。
書こうと思っているうちに、色んな出来事が行事も積み重なり。
「師走=日頃走らない先生も走る」のが師走、12月とは昔の人は本当によく言ったものだ。
この一ヵ月は、ただ忙しかっただけでなく、自分の思考回路を整理できなかったというのもある。
僕のブログは、日頃の出来事を列挙するのが目的ではない。
『文豪たちは今日も~』のタイトル説明文にも書いてあるが、ありきたりな日常生活を通し、今までの自分とはちょっと違った視点の発見や気付きによって、"非日常感" を感じられたことをまとめているつもりだ。
そのため、投稿のネタとなるようなインスピレーション(直観)が舞い降りてこなければ、いつまで経ってもブログは更新されません(笑)
それが、このブログ。
さて、前置きはこのぐらいにして。。。
この一ヵ月の間は、忙しかっただけあり、出来事や行事そのものが "非日常" ではあった。
非日常=対処の仕方が分からない
ということにもなる。
つまり、気を張る、緊張するということになる。
僕は、気楽さが大好きだ。
適度な緊張は健康にも良いのだろうけど、如何せん「ビビりな」性格なもんで・・・
ことあるごとに、行動する前から「どうしようどうしよう」なのである。
もう数年経てば、人生40年生きていることになるけど、未だにどうしよう病は治らないのだ。
心配性。
それで、こんな心配性な僕は、よくこんなことを考えて乗り切っている。
例えば、明日、自分にとって物凄く心配される出来事が待っているなら、
「大丈夫。24時間後の明日の今頃にはすべて終わっているから。」と。
それがどんなに自分の思い描いたような現実にならなくても、どんなに辛い思いをすることになったとしても、未来の自分からしてみればすべて想い出。
「あんなこともあったなぁ。」で片づけられることなのだ。
そして、この発想の延長線上として。
ここ最近、こんなことを考えることがある。
「生きている間に、満月をあと何回見れるのだろうか?」と。
僕と一緒に考えてみてほしい。
満月は、一ヵ月に1回と決まっている。
太陰暦を使って、一年365日をきれいに12分割しているわけだ。
一年間で満月を拝めるのは12回。
でも、満月の日、いつも夜空が晴れているとは限らない。
仮に、天気を晴・曇・雨とおおざっぱに分け、雨の日以外は満月を観られるとしたら、3分の2の確率で観られることになる。
もちろん、晴れる確率・曇りになる確率...と、それぞれにも確率があって、厳密には数学的な確率の話が出てくるが、ここでは極端に話を単純化して考えてみよう。
さらに!
「満月を観よう」と思って、天体観測のごとく毎月の満月を楽しみにしている人もほとんどいないだろう。
せいぜい、ニュースになる『中秋の名月』の日ぐらいだろう、意識して観るのは。
ふと、夜空を見上げて、「今日は満月だな。」となるはずだ。
満月の日に、仕事等で外出しており、さらに満月に気付ける確率はどんなもんか。
仮に、2回に1回の確率としよう。
それでは、ここまでの話を整理すると。
一年間で、満月に気付いて観られる日は、
12×(3分の2)×(2分の1)=4回
となる。
丁度、ワンシーズンに一回の計算。春夏秋冬で一回ずつ。
人の人生80年としよう。
健康体で、布団に寝たきりになる前の人生80年としましょうか。
残りの寿命と掛け算してみれば、おおよその満月を拝める回数が出てくる計算だ。
僕だったら、人生あと40年として、40×4=160回。
これを多いと感じるか少ないと感じるか。
僕は、意外と少ないという感想だ。
なぜなら、今日満月を観たとして、次に満月を観る日までに、様々な出来事が起こっているだろう。
大きく状況も変わっているかもしれないし、自分の心配事等もあらかた片付いている気がする。楽しみなことや、結果が気になること等も、次に満月を観る日までにはあらかた片付いている気がするのだ。
それらのバトンリレーのような歳月の先に、人生の終結があると考えると、僕ならあとバトンリレーが160回で終わる。
「満月綺麗だな。」と思って、次に「満月綺麗だな。」と思う頃には、全然自分が想像だにしなかったような地で満月を眺めている可能性だってあるのだ。
それが人の人生。
歴史ヒストリー。
現代だって同じだよね、きっと。
何年経っても、、、
バトンリレーが終わる頃になっても、「満月綺麗だな。」と思える余裕と感性は失っていたくないなぁ。