文豪たちは今日も生きている~何でもないはずの日常に潜むレトリック~

30代後半ともなると、日常で降りかかるあらゆる出来事に関心を示せない自分がそこにはいた。「こういう時にはこうやって対処すれば良かったよね。」いつの間にか、ステレオタイプ化された自分。。。そんな ”ありふれた日常” にも、本当は潜んでいるはずの非日常を探しに・・・

自分ご褒美

自分へのご褒美。

皆さんは、どんな時に ”自分へのご褒美” をあげるのだろうか?

 

 

 

今週は、久しぶりに遅番の僕。約三か月ぶり。

夕方ぐらいの勤務から始まり、深夜に終わる。日付をまたぐ。

日頃は日勤で、朝早くからの勤務に慣れているので、遅番はとにかく眠い。

「一分一秒でも早く寝たい」のだ。

 

 そんな、眠い中頑張った自分へのご褒美として、日付をまたぐ遅番の日限定で、僕は高速道路を使って家に帰るのだ。

プチ贅沢。

ETCだと深夜割引もあり、そこまでの出費にもならない。

周りを走っているのは、トラック9割。

そんな中、乗用車でスイスイ走るのはなんとも気持ちが良いのだ。

 

これは、ほんの一例だ。

 

他にも、誕生日を祝ってくれる恋人がここ何十年といない僕は、当然!誕生日にも自分ご褒美(笑)

「年にたったの一度きりだから、思い切って、欲しかったあの商品を買おう」

となる。。。

 

 なんだか、自分に甘すぎるのではないですか!?

 

 

 

ゴホン、えーっと、話を本題に戻します。

 

自分ご褒美の話。

実は、よく考えると、『人の深層心理』や『”自我” 像』といったことにとても密接に関わってくると思うのだ。

 

どういうことか。

 

 「これだけ頑張った自分がいるのだから、これぐらいはハメを外してもいいだろう・・・」

自分ご褒美は、一言で言い換えると、こういうことなのだと思う。

 

ここで、筆者が注目したいのは、「これだけ頑張った」とか「これぐらいはハメを外そう」の基準が人によって違うのは、モラルとか道徳の問題よりも、『自分が考える ”自分” 像、自己イメージ』によって大きく左右される問題ではないか、と思うのだ。

 

 

 

深層心理とか自我という言葉を聞いて、思い出すのがフロイトユング

 

人の ”意識・無意識” という心理を、イド・エス(欲望)、自我(心の中心 / 全体統制)、超自我規範意識)の三つに分けて説明しようとした。

人間の「~したい」という欲求・イドと、「~してはならない」という規範意識超自我のバランスを保つ統制役なのが自我(エゴとも言われる)。

確かそんな説明。

 

 一方で、自我って、『自我同一性』とか『アイデンティティの確立』とかにも使われる。

「自分って、こういう人間です」という意識が強く芽生えるのが思春期や青春期。

自分が考える自分と、周りから見られている自分の自己像が一致してくるとも言える。

 

 

 

 まとめると。

 

『ルール・規範をどれぐらい守れる自分がいて、これぐらいハメを外しても問題ないと考える自分もいて、その ”総合的な自分のキャラ” を自分で受け入れられている状態』

これが自我の確立。筆者流の説明である。

 

 

 

では、この自我・アイデンティティは、一度確立されたらもう変わらないのか?

と言ったら、けっしてそんなことはないはずだ。

 

 長い人生の中で、様々な出来事を経験したり、色々な方との出逢いを通し、常に自己像は変化し続けるものだろう。

 

時には、大きな挫折にぶち当たり、価値観が変わっていく中で、”自分のキャラ” の変容を試みる時だってあるかもしれない。。。

 

 例えば、つい先日、巷を騒がせた吉本興業の話をとりあげると。

裏組織から『闇金の類』だと知っていてギャラを受け取ったのかどうか。

本当のところは、もちろん本人たちにしか分からない。まさに真相は闇。

もし、「悪いお金だろうな」となんとなく感じながらも受け取っていたなら、「これぐらいハメをはずしても大丈夫だ」だというイド・エスの自己像に基づいて金品を受領したことになる。

ところが、週刊誌にすっぱ抜かれて、世間をこれだけ騒がせることになった。

もともと吉本興業の企業体質にも問題はあっただろうし、金品を受領した当の本人たちは本人たちで、おそらくは「これからはもっと真面目に生きていこう」といった超自我の自己像を強めるきっかけになったはずである。

まさに、”自分のキャラの変容” をせざるを得ない状況なのである。

 

これは、”自分のキャラの変容” が可能な状況、自分次第でまだまだやり直しが出来る状況と言えるだろう。

しかし、残酷なことも有り得る。

時には、この自己像の変容を ”プラス方向に変えられない” ことだってある。

 

ここでもう一つの例。アスリートや芸能人の薬物問題の話をあげさせてもらう。

 

麻薬や大麻といった非合法の薬物の、何が一番残酷なのかと筆者は考えるのか。

幻覚症状など身体へのダメージもさることながら、「止めたくても止められない」という精神的苦痛、、、つまり

『止めたいという超自我の意思が、薬が欲しいというイドの欲求に負け続けていることの絶望感』

これは、『今まで確立されていた自己像の崩壊』を意味し、過去の栄光や誇りを全て失ってしまう状態と等しいだろう。

もちろん、アスリートや芸能人に限らず、人間なら自分なりの誇りやプライドを持って生きているのだから、誰にとっても当てはまる話なのである。

 

まさに、自己像の変容をプラスに変えるのが難しく、「イドの欲求に負け続ける自分」ということで深く傷つくのが、薬物の何よりも残酷な点だと思うのだ。

 

 

 

暗い話をしました。

 

非合法の薬物とまではいかないまでも、僕はお酒を飲むのが好きで、毎晩晩酌している。

本当なら、休日ぐらい「休肝日」というのを設けるべきだが、なかなか難しい。

これだって、「イドの欲求に負け続けている自分」である。

ただ、お酒は合法だし、「これぐらいハメをはずしても大丈夫だ」だというイド・エスの自己像を受け入れて、日常を送れているのだ。

 

もし、僕が結婚し。

子どもが生まれ。

父親になった。

(なんだか、前回の例えと展開が似てきましたが 笑)

 

 そのとき、「自分もついに父親になった。今までの飲酒生活はしばらく止め、心を入れ替えよう!」となったら、これこそまさに ”自分のキャラの変容”。

長い人生の中で、様々な出来事を経験していく中で、アイデンティティを少し変える。

 

 

 

人は、長い一生を通し、自己像を少しずつ変えながら環境に適応していく。

 

色々な役割を身につける。

 

 大変なこと、挫折することも時にはある。

 

そんな人生ドラマの中で、日頃お世話になっている方の励ましや支えがあって、何とか生きている。

 

そして、そうやって粛々と生きていく中で、また少し自分を変える。

 

そんな、当たり前のようでいて実は当たり前ではない、とっても大掛かりな一生涯かけての大事業をしながら、皆んな生きているのだ。。。

 

 

 

自分の変化を楽しみつつ

自分ご褒美もしっかり楽しむ

 

これが、人生を幸せに生きるために僕が出した結論です(笑)